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2020年12月 1日 (火)

学習AI

いよいよ時代も時代ですね。

学習AIの営業の電話が結構来るようになりました。

私も今後の塾の在り方を考え、3年前から東京ビックサイトで行われているICT教育の展示会に足を運んでいます。

まず思う事は「すごい生徒の成績が伸びそう」

ただ「そう」なんです。

プロの私の目から見てもそうなので、ご家庭では魔法のツールと思ってる方もいるでしょう。

「学習AIを導入した~」みたいなCMもやってますね。

 

私はこの塾業界(広義の意味で教材販売会社、教育アプリ開発会社、ICT機器販売会社も含む)と文部科学省の方向の違いをとても心配してます。

 

文部科学省の指導要領は「AIに任せれる部分はAIに任せ、人にはAIの出来ない閃きの部分を担う」事を前提として学力の定義を「どれだけたくさんの事を覚えている」から「どう使えるか」へシフトしています。

「思考力」「判断力」「協働性」を重視した教育を目指すと発表されてます。

 

一方、塾業界では教育AIを前面に出した教育の合理化が進められてます。

生徒の不正解問題をデータ化し弱点を洗い出してそこを補強していく。

 

これって、旧体制の「どれだけ覚えてるか」を追求する学習でないでしょうか。

私は学習には大きな副産物があると思っています。

それは「考える力がつく」ことです。

「なんでうまくいかない」「何が悪かった」「何を変えればいい」といった修正する過程を合理化して良いものなのでしょうか。

そこをAIがはじき出し、それにしたがって行動する。

それって、指示書通りに動いた結果、良いパフォーマンスが出るってことですよね。

「指示通りに動く」というものこそコンピューターに勝るものは無いでしょう。

そんな教育を受けた子たちが、将来AIが全盛の時代に仕事をしていくことができるのでしょうか…

 

そして何より子供たちは想像力を失うんじゃないかと心配してます。

自ら計画することは、それだけで「想像」することです。

人にしかできない0から1を生む作業です。

それが成功でも失敗でもいいんです。とにかく自分で考えて行動しなくては。

 

ドストエフスキーの著書『地下室の手記』のなかに

「計算通りに全て動くのだったら自分の意志などないではないか」

という言葉が出てきます。

合理化の先にあるものは、まさにそういう事で、AI社会を生き抜くためには合理化と対峙し強い個を持つことが求められるのではないかと思います。

私が日本教育の端っこで叫んだって、どうにもならない濁流が流れていることは重々承知しています。

どうなっちゃうんですかね。

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